二式複座戦闘機キ-45屠龍墜落の地へ行ってきた。
太平洋戦争において、千葉県は本土防衛のための基地などが多く存在していたし、それが引き継がれて現在の自衛隊駐屯地になっていたりするが、今回は太平洋戦争にて戦い、墜落、戦死された場所へ訪れた。
いすみ市の特攻機「桜花四三乙型」行川基地跡に訪れた時のもの。
昭和20(1945)年1月27日「二式複座戦闘機キ-45屠龍」は東京爆撃を終えたB29、13機の編隊へ迎撃に出た。
この屠龍(とりゅう)には、常陸教導飛行師団・第二教導飛行隊に所属の小林雄一陸軍軍曹と鯉渕夏夫陸軍兵長が搭乗していた。
当時、小林軍曹は二十歳、鯉渕兵長は十八歳。
千葉県船橋市上空8000mにおいて交戦し、体当たりを敢行。
B29は愛称"ハーレーズコメット"、McDonnell機長以下11名が搭乗していた。同酒々井町伊篠(いじの)付近に墜落。
二式複座戦闘機キ-45屠龍は同八千代市神久保の沼地に墜落した。
翌日、鯉渕兵長の遺体は収容されるも、小林軍曹の遺体は機体の破片とともに沼地の中に残されたままとなった。
目撃者の話によると、八千代市上空で旋回しながら高度が低下していき
墜落直前で民家を避けるためか旋回上昇後、当時沼地で在った八千代市神久保の水田に
墜落したといいます。
戦後、昭和55(1980)年に飛行隊同期の戦友の方が墜落地点を探し発見に至り、屠龍の発掘を願い出たが、結果的には敵わず。
平成8(1996)年9月19日に八千代市により発掘が進められ、機体の破片などの発見があり、また遂には墜落当時収容されなかった、小林軍曹の遺体も発見となった。
そんな場所があると知ったのは数年前で、目印は木製の碑が立っているということだけだった。
一応、Googleマップに印をつけておいたが、果たして訪れても見つけることができるだろうかと。
実際に行ってみた。
目印にしておいた「神久保機場」が見える。その正面あたりらしいが・・・。
時折、農家さんの?軽トラックが通ることがあった以外はほぼ交通はない。この先は切り通しのような細い道だった。
左側の田んぼが当該地域らしい。
「神久保機場」と裏手には大きな物流センター?現在のGoogleマップにはDHLとあるが・・・?
2022年のストリートビューには映っていなかったのでかなり新しい建物と思われる。
そして、目星をつけていた場所についたが、何もない。木製の碑が一本だけ立っているとの情報だったが・・・。
右手は農業用の?水路。
この辺りにあるはずの碑がない。
改めてストリートビューを見てみてもない。
ストリートビューの「他の日付」で過去に遡ってみたところ・・・
あった。2011年1月のもの。
2013年7月にも残っている。
2015年7月にも残っていた。
2019年4月・・・なくなっていた。
2022年11月。やはりない。
2015年7月から2019年4月にかけて、何かしらの原因で失われてしまったようだ。
しかし場所は間違っていなかった。
現在はこの碑も無くなっているので、通りかかる人は全くわからないと思う。
しかし、ここに墜落したのは事実なんだと思うと、胸にくるものはあった。
20歳と18歳の若者が死んだ。
同時に撃墜されたB29搭乗員11名も死んだ(と思われる)。
2024年、存命であれば99歳と97歳。戦争がなければ生きていたかもしれない。
当該機は靖国神社にて展示もされているとのこと。一度は見に行った方がいいのかもしれないと思った。遊就館は見るだけでも辛いものがあるが。
なぜ、私はここに訪れたのか。ただの好奇心だ。でも知ること、肌身で感じることはできた。
それだけでも収穫があり、私の中に刻まれるものがあった。
平和を祈願するということは全く浮かばなかった。
ただ、目の前にある田んぼを眺めるだけだった。冬になる前の肌寒い風が少しだけ吹き抜けるだけ。
そのまま、現地を後にした。
せめて、手を合わせるべきだったのだろうか。今でもわからない。
戦跡を訪れると、いつも「生かされている」と思ってしまう。
上記、情報に感謝したい。
B29搭乗員の墓を見てきた時の記事